日本のプラハ派コントラバス奏者と広がり① ❶-❽
今回からは、日本でのプラハ派奏法の広がりについて、また疑問点や、今後調べたい事を綴っていこうと思います。
何か情報をお持ちの方は教えていただけますと幸いです。
日本に最初にプラハ派奏法を取り入れたと言われている方が、長汐壽治 (1900-1975)氏。
簡単に経歴を見てみますと、
1927 新交響楽団(NHK交響楽団の前身)にチェロ奏者として入団
(1929年1月の時点ではチェロ奏者、5月にはコントラバス奏者、12月には渡欧となっていたそうです。)
1929-1932 プラハ音楽院にてFrantišek Černý氏に師事。
1932- 新交響楽団 コントラバス首席奏者
1933- 帝国音楽学校 コントラバス講師
1935- 東京音楽学校 教務を嘱託
1943- 講師を嘱託
彼は、元々チェロ奏者として新交響楽団に入団していた様ですが、コントラバスに移行。最初に使用していた弓は、チェロからの移行もし易かったためか、フランス式だった様です。
疑問点・今後調べたいこと
❶1880年にコントラバスが輸入され、今井基万氏が1881年に演奏はしていますが、東京であってもコントラバスの教育、奏法の伝授といった類のものはなされて居なかったのでしょうか。
❷今井氏はフランス式、ドイツ式、どちらの弓を使用していたのでしょうか。
❸1880年頃に既にアメリカにはプラハ派は存在していたのでしょうか。
❹1880-1929年までの間、コントラバスはどの程度普及しており、どの様なレベルだったのでしょうか。
❺フランス式の弓を使用していた長汐氏が、フランス等、フランス式の弓使用国ではなく、プラハに留学した理由。
❻当時、日本でドイツ式の弓の認識はどの程度あったのか。
❼František Černýによるプラハ派奏法のフランスの影響。
F.チェルニーについては、後に詳しく触れますが、チェコだけではなく、フランスでも学んだコントラバス奏者です。フランス留学後はロンドンに1年在住、そしてプラハではフランスの弓の持ち方を広めようとまでしていたらしいのです...
チェコのコントラバス教育は1811年に開始されているため、100年以上の歴史から、当時のチェコの奏法(元祖プラハ派と言えるでしょうか)にどのようなフランスの影響があったのか、すでにフランスの影響があったものを長汐氏が習得している可能性も含め、後々探っていけたらと思います。
❽なぜフランス式を習える環境があったにも関わらず、フランス式を習得し、日本に広めなかったのか...
参考文献
永島義男教授の論文
『コントラバス演奏の基礎技法に関する研究』
https://geidai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=720&item_no=1&page_id=13&block_id=17
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