J.K.Vaňhalのコントラバス協奏曲は実際何調?
まずは、Jan Křtitel Vaňhalについて紹介。
1739年5月12日にチェコのボヘミア地方、ネハニツェ(Nechanice)に生まれました。
そこで最初の音楽教育を受け、18歳の時にはその町のオルガニスト、その後すぐに教会楽長になりました。
1761年、Gräfin Schaffgotschがウィーンのディッタースドルフの元で作曲の勉強をすることを勧め、支援してくれました。
その後、フリーランスの作曲家として成功しただけでなく、音楽教師としても有名になりました。
パトロンのBaron Rieschにより1769年から2年間イタリアへ留学しました。
留学後、健康上の問題にてしばらく作曲からは遠ざかり、Grafen Erdödyの元、ハンガリーで生活しました。
そこで、おそらく後のコントラバス協奏曲を書くきっかけとなった、シュペルガー氏に出会いました。
1780年にウィーンへ戻り、その後1813年8月20日に亡くなるまで非常に尊敬され、良い生活をされたそうです。
彼は当時、作品だけではなく、作曲家、演奏家、教師という、音楽家として尊敬されていました。人としても、皆が口を揃えて親切だと言われる性格だったようです。
Koželuch氏の元で、カルテットの演奏会もハイドン、モーツァルト、ディッタースドルフ、と共に開いています。
ハイドンはモーツァルトの曲と同じように、ヴァンハル のシンフォニーも演奏していたようです。
コントラバス協奏曲ですが、1786-1789年の間に、おそらく当時のコントラバス名手であったシュペルガーのために作曲されました。カデンツァはシュペルガーの手に委ねられた様です。
Vaňhalは100曲の交響曲と、たくさんの教会音楽、様々な楽器による協奏曲、2曲のオペラや声楽曲を残しています。
ところで、彼のコントラバス協奏曲を演奏したことがある方は疑問に思った事がありませんか?
現代ではD-durとE-durが一般的に演奏されているみたいだけど、どっちがオリジナルなんだろう?と...
これ、実はどちらでもなく、Es-durがオリジナルの様です。
当時のウィーンでは、ウィーン調弦のコントラバス、A-d-fis-a、つまりD-durの主和音の調弦、もしくは半音スコルダトゥーラで上げられた調弦、B-es-g-b、つまりEs-durの主和音の調弦で演奏されていました。そのため、当時のコントラバス作品の中にはD-dur、Es-durの作品が多く作曲されています。
シュペルガーの手書きカデンツァが残っている様ですが、それはD-durで書かれています。が、スコルダトゥーラで半音上げて演奏したのであれば、記譜はD-dur、実音はEs-durだったという事でしょうか。
参考文献
Konzert D-dur für Kontrabaß und Orchester
Klaus Trump Hofmeister社
Čau x Čau
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