1880年アメリカでのプラハ派奏法は? ❸/❾
今回は前回の疑問の❸番、日本に初めてアメリカからコントラバスが輸入された1880年に、既にプラハ派奏法はアメリカに広がっていたのかどうかについて、調べたことを書きたいと思います。
結論は、おそらく1976年に、プラハ派奏法は渡米していそうです。
イギリス等からの移民の歴史も加味すると、1880年当初、プラハ派以外の奏法がポピュラーだった可能性もありまそうです...アメリカの最初のコントラバス演奏について❾も今後何か情報が得られればと思います。
本題。
おそらくアメリカで最初に影響力のあったプラハ派コントラバス奏者は、
Ludwig Manoly 氏(1855-1932)。
ハンガリー出身
ウィーンで初代プラハ音楽院コントラバス教師Josef Hrabě氏の生徒Franz Simandl氏の元でコントラバスを学ぶ。
最初は、合唱で非凡な声を持っていたため、彼が15歳の時、ウィーン少年合唱団 ボーイソプラノ(音楽院)のオーディションを受けようとしたが、声がわりによりオーディションを受験できなかった。しかし、コントラバス科の奨学金を得、F.Simandl氏に師事。
和声、対位法、作曲をA.Bruckner氏に師事。指揮をJoseph Hellmesberger氏に師事。
1876年に卒業し、渡米。
the Theodore Thomas Orchestra, the Mendelssohn Quintette Club of Boston, and the Boston Symphony Orchestraで演奏
後、1880年にNew York Philharmonicとなるthe Philharmonic Society of New York and the Philharmonic Clubで演奏。
1880年よりニューヨークフィルハーモニー奏者
1892年よりニューヨークフィルハーモニーの首席
その後、メトロポリタン歌劇場で演奏する。
A.ドヴォルザークが院長をしていた国立音楽院で教師、後のジュリアード音楽院となるinstitute of Musical Artでも教師をした。
作曲作品
沢山の作品があり、その中にはコントラバスの曲と1905-1928年にニューヨークフィル首席フルート奏者であったGeorges Barrère氏へ捧げられたフルート協奏曲が含まれている。
L.Manoly氏のコントラバス作品
Božo Paradzik氏の生徒の演奏
43:14-46:10
Ludwig Manoly氏
画像転載
http://www.billbentgen.com/bass/players/manoly.htm
Čau x Čau
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